余白と空白
Sexy Zone 6th ALBUM『PAGES』のいちばん最後に収録されている『いつまでもいつまでも』をはじめてフルコーラスで聴いたとき、編曲への違和感を感じた。
2番が終わり、Dメロ(破いて〜)のあとの“間”が、どうしても引っかかる。
楽曲には、間奏があることは知っている。
だけど、何度聴いても、ここで、ん?ってなってしまう。
唐突にぽっかりと空いた空間。
あれ?ここ歌パートが入るんじゃない?って思った。
サビをもじったようなフレーズが入る気がする。
わたしには「空白」に感じてしまった「余白」の時間。
音楽のうんぬんかんぬんは全然わからないし、アレンジであえてあそこに間を設けただけならば、それはそれで素直に納得する。
だけど、わたしの感覚だと、もう少し何かがほしい、前向きな不完全さを感じた。
「余白」と「空白」という言葉がある。
どちらも意味合いは、“何も書いていない白い部分”。
でも、捉えかたは少し違う。
「余白」は、あらかじめ決められて開けられた白い部分。美しさや心地よさを感じ、「スペース」なんて表現が合う。
「空白」は、あるべきところに何もないこと、継続しているものの一部が欠けていること。寂しさ、もの足りなさを感じ、「ブランク」という表現が用いられたりする。
『Sexy Zone LIVE TOUR 2019 PAGES』の横浜アリーナ公演。
会場に入るとそこには、どこか懐かしさを感じるステージセットがあった。
しかし、常に誰かがステージ上にいて、手を振っていて、ひたすらに楽曲を披露していたいつかの記憶は鮮やかに塗りかえられた。
彼らが披露するひとつひとつが、選びぬかれた楽曲、考えられた演出であることは誰もがわかったと思う。
ああ、この人たちはいつのまに、空間の使いかたや間の取りかたがこんなにも上手になったのだろうか。
少しの曲間、自分たちがステージ上から姿を消しているとき、会場の空気を変えたい瞬間、本当に伝えたいことを表現するとき。
わたしは、「余白」という目に見えないものへの重みを感じた。
わたしたちは、ついつい具体的な言葉や数字、形のあるものがほしいと思ってしまう。
そんなところばかりに注目して、隙間を埋めるように詰めこんで、答えを急いでしまう。
だって、不安だから。こわいから。
だけど、「余白」とか「空白」とかっていう表現がこの世界にはあって、それを感じ大切にできる力を、わたしたちは持っているのだと思った。
『いつまでもいつまでも』、コンサートでもいちばん最後の曲だった。
ライブとなれば、少しの瞬間でさえもわたしたちをたのしませようと、煽りや言葉を発してくれる目立ちたがりで喋りたがりなあの子たちが、あの間奏は誰も何も言わなかった。
聴こえたのは、コーラス音と勝利くんのハミング。
やっぱり、あの6小節間には、わたしたちの知らない歌詞と歌のメロディーがついてるのだと思う。
あれは、「余白」に見せかけた「空白」だ。
まあ全部、わたしの勝手な解釈なんだけど、あの“間”に何が入るのか知りたいと思ってしまうんだ。
コンサートを見て、そうだこの人たちはどんなときでも前を見て今できることを全力でまっとうする人たちだったな、っていうのを思い出した。
多くは語らないし安心する言葉は少ない。その代わり、一生懸命パフォーマンスする姿は何より信頼できる。
コンサートを見ながら、突然東京ドーム公演が決まっても全然へっちゃらだなあ!かかってこいよ!なんてぼんやりと考えた。
なんだろう。
それでも、ステージに並んだときに感じた、圧倒的に何かが足りない、アンバランスさ。
言うならば、「空白」。
あの不安定さに胸の奥をツンと引っ張られて、明日もがんばれると思った。
*
わたしにとってたった一回の公演。
めちゃくちゃたのしかった。
心からありがとう。
コンサートツアーが無事完走するまで、遠くから誰にも負けない声援を送りつづけます。
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