ハムレットは今日も生きる
先日、ご縁あって東京グローブ座にて『ハムレット』を観劇してきた。
悲劇でありながらとても清々しく満たされた気持ちで劇場を後にする、そんな舞台だった。
この気持ちの正体は何なのか?
400年以上つづく古典劇に少しばかり踏み入ってみたいと思った。
正直なところ、観劇前に書籍を読んだときは言葉づかいや情景が難しくてちんたらちんたら読んだので、劇の台詞まわしが速いのなんので驚いた。想像の10倍くらいのスピードで(特にハムレットが)ベラベラ喋るから、ヒーーーって思いながら観てた。
そのテンポ感もシェイクスピア劇の演出のひとつなのだと後から学んだ。
観劇後、パンフレットと持っていた書籍はもちろん、図書館で様々な『ハムレット』に関する解題・解説文を読み込んだ。
Q2、F1、Q1、何それ美味しいの?からはじまり、
上演台本であるハムレット。
悲劇、復讐劇が大前提とされたハムレット。
復讐劇ではなく哲学的なものだと説かれるハムレット。
母との関係性を掘り下げるハムレット。
痩せてるハムレットと太ってるハムレット。
…本当にキリがない!!
時代によっても人によっても様々な解釈があるようで、混乱しながらも面白いなあと引き込まれた。
とはいえ、結局は400年もの間にいろんな人がすき勝手に言ったこと。
本当の意味での“正解”は存在しない。
だからこそ、たくさんの人が深く掘り下げて必死に考えて愛されつづける作品なのだなと思った。
パンフレットに、「ハムレットは何か偉大なものになろうとして、そのために苦しんでいる」というキルケゴールの解釈について書かれていた。
ハムレットは、“英雄”になろうとして葛藤していたのだという。
わたしは、今回ハムレット役を務めた菊池風磨くんの所属するSexy Zoneのファンであり、彼らを応援してきた。
今このタイミングで『ハムレット』という作品がやってきたこと、それをわたしたちが観て作品と向き合うことは、偶然の産物ではなかったように思う。
“Sexy Zone”をかけがえのないものだと抱きしめる人たちにとって、難問であり正解がない、けれどすぐそばにある務めのようにさえ思えた。
「いま来るなら、あとには来ない。あとで来ないなら、いま来るだろう。いま来なくても、いずれは来る。覚悟がすべてだ」
ハムレットがレアティーズとの決闘を決意したときの言葉がわたしはすき。
恐らく、自分がヘラクレスのように神にはなれないちっぽけな人間だと認め、死への覚悟を決意したときでもある。
また、シェイクスピア劇は観客と劇中人物が同じ情熱を体験することが求められている、というのが興味深かった。
額縁舞台でなく、張出舞台。
劇中人物と観客を隔てる見えない幕は存在しない。
劇の最後で、“ここにいる人たちは台詞のない脇役か?それともただの観客か?”というニュアンスの台詞が印象的だった。覚えてる限りなので一語一句定かではないけれど、心臓がドキリとした瞬間だった。
わたしは、はじめて『ハムレット』を観劇した。
不思議なことに、ハムレットの独白が、スッと身体に浸透してくる瞬間が確かにあった。
そのときは気づいてないけど、ハッと我にかえったときにあれ?今わたし…?みたいな。
まるでコンサートで、聴き馴染んだ楽曲に無意識に声を上げて会場と一体になるときのような。大切な楽曲を丁寧に集中して聴き入るときのような。
きっとあれこそが、今ここで生きるハムレットの人生を共にしたという証なのだ。
*
『ハムレット』東京公演千秋楽おめでとうございます。
大阪でも多くの人に彼の生きざまが響きますように。
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